泉のように




 
 

 I've got joy like a fountain.(泉のような喜び)
 I've got peace like a river.(川のような平和)
 I've got love like a ocean.(海のような愛) in my soul.(我が心に)

 保育園の子ども達が楽しそうに歌う。小さな泉から、川を経て、海に至る。この水の豊かさを私の心に持っていたい。自分の内から溢れ流れて周囲を潤す泉のように。それは絶え間なく湧き上がり、枯れることを知らない。

 「そんな内なる豊かさなどあろうはずは無い。」と人は言う。しかしイエスは言う。「この水を飲む者はだれでも、また渇くであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、湧きあがるであろう。」(ヨハネ4:13,14)そして私も言う。「来て、見て下さい。」(ヨハネ4:29)

 泉は天然の賜物である。「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」(ヨハネ4:11) それ自体が水を産出するのではなく、自身で蓄えることもしない。また人の手によって汲み上げられる必要がない。井戸とは全く異なる性質である。自分の心を満足させるため人は娯楽を発明した。しかし渇きを潤すために日常生活を離れ、自分の水がめを抱えて何度も井戸に足を運ばねばならぬ。暮らし向きは豊かだけれど心は乏しいのだと思う。

 泉は知っている。自分が水源では無いことを。たとえ自分が小さくあっても、地下には無限の水脈を持っている。人知れず存在しているかのように思えても、確かに認められ、感謝されるものだ。

 あなたの心は知っているだろか?活水の水とその宝庫を。イエスは「自分の心に安定が無く、喜びが無く、愛情がなければ、表面的活動は全て偽善である」とし、永遠の命を持たない、不真実な宗教者達を叱責された。正直者は自分の内側に真実がないことを認め、捜し求めるようになる。やがてその心が神に結びついたなら、少しばかり自分を広げる努力をしよう。それだけでもっと広く潤せるようになるのだから。