王の宝探し




 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。(箴言25:2)
英語欽定訳(KJV)では
 It is the  glory  of God to conceal a thing: but the  honour of kings is to search out amatter.
すなわち、事を隠すのは神の栄光。事を探るのは王の光栄といった訳になるでしょうか。

 大航海時代、ヨーロッパ諸国の王達は探検隊を出し、発見の喜びを求めました。ところが、昨今のクリスチャンはどうしたことか冒険的に聖書を読むワクワク感に欠ける。道徳・倫理として語られる説教が退屈で、居眠りする人は珍しくない。聖書へのハングリー精神を殺された教会は、他の活動へと傾いていきます。

 神が隠された栄光を探し当て、その光栄に与かる。なんと素晴らしいのでしょう!もし私たちが探し求めさえするなら、神が隠されたものを見つけることが出来るのです。

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7,8)

 主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。(詩篇111:2)

 人々が隠された主のみわざを探し求めない理由は、もはや人々の心に喜びがないからです。この150年の間に何が起こったのでしょうか?かつて説教者や教師が持っていた、神のみわざを探すことの興味と渇望が消されてしまったのです。人々はある決まった教えを受け、ある定められた事をするばかりで、そこには神との関係における喜びがありません。

 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。(ホセア6:3)
英語欽定訳(KJV)では
 Then shall we know, if we follow on to know the LORD.
 もし私たちが主を知ることを追い求めるなら、そこで、私たちは知るだろう。という具合です。

 何が善で何が悪か?何が正しく何が誤りか?カルヴァン主義が正しいのか、それともアルメニウム主義が正しいのかという事を追い求めるのでなく、主ご自身を追い求めるなら…そのとき私たちは知るのです。

さて、私達はまず「王としての立場」を取らなければなりません。

 私たちを王国とし、…祭司としてくださった方に…。黙示録1:6
英語欽定訳(KJV)によると、
 And hath made us kings and priests unto God and his Father.
 私たちをとし、…祭司としてくださった方に…。

 王のことばには権威がある。(伝道の書8:4)

 聖書の中で、神は(男と女、ユダヤ人と異邦人というように)秩序を与えておられるのが分かります。その事に注意を払わず、優先順位を変えるとたちまち混乱を招くことになるでしょう。その順序とは第一に「王」、第二に「祭司」です。

 Uサムエル11:1〜12:18ではダビデの過ちについて述べられています。では何故、ダビデにこの事がおこったのでしょうか?ダビデは王としての立場をとらずにエルサレムにとどまりました(1:1)。もし、ダビデが王として立たなければ、次に来るべき彼の能力と責任である、祭司としての務めを満たす事は出来ません(12:15〜18)。同様にクリスチャンがまず王としての立場をとらなければ、他の人々のために執り成す事が出来ないのです。なぜなら、祭司は至聖所に入って人々のために執り成す者ですから、その仲裁において王の立場は絶対に不可欠なのです。

 ところであなたは聖書を楽しんでいますか?宝探しの喜びを知っていますか?神の喜びが伝道と奉仕の源でなければ何かおかしいのです。あなたは聖書の冒険者ですか?