程度の違い?それとも種類の違い?




 
 
 比較宗教という分野があります。各々の信仰、概念、希望、
形式、活動などを比べてみれば、その類似点、相違点に面白
い発見があります。でも、真のキリスト信仰と他宗教(或いは宗
教的キリスト教を含む)との間には決定的な違いがあります。そ
れは「程度の違い」(Defference in degree)か「種類の違い」
(Defference in kind)かということで説明できるでしょう。
 例えば、コーヒー・紅茶・ミルク・ジュース・自動車の中で仲間
はずれはどれでしょう?勿論、自動車ですね。飲み物と乗り物
の間には比較にならない違いがあるのを理解されたことでしょう。
コーヒー・紅茶・ミルク・ジュースはそのグループの中にあって程度
の違いこそあれ、飲み物という種類です。ところが、飲み物と自
動車の比較は分野・種類の違いなのです。

 同様に宗教を取り扱ってみましょう。宗教とはなんですか?それは神にアクセスしようとするあらゆる人間的、或いは人間が考えた手段・儀式・組織・迷信・努力の事です。言い換えるならば未だ神に出会った事のない人が神をイメージする事だと思います。しかし真のキリスト信仰は、もはや神をイメージする必要がない。なぜならば彼らは神と出会い、神と共に生きているからです。

 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。(創世記5:22)

 旧約聖書の中でヨブは宗教者から信仰者になった良い例です。

 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。(ヨブ1:1−5)

 ヨブは神を信じる正しい人であったので、悪から離れていました。しかし神に出会った事がなく、伝えられた伝承によって神に仕える人だったのです。しかし後々、ヨブは苦難の中で神と出会う経験をし次のように語っています。

 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ42:5)

 私自身も長年の間、神をイメージし、教えられたとおり他者に伝える仲介業的役割の牧師だったのですが今では全く変えられました。聖書勉強から、また体験から、日々に神を知りつつある喜びと楽しさを味わっています。

会ってみたら分かる!会わなければいつまでも分からない。宗教から脱却したキリスト信仰は「程度」ではなく「種類」が違うのです。