何故、そんなに多くの解釈があるのですか?




 ある方が感じている疑問の一つとして、カトリックとプロテスタント間における争いがあります。または、エホバの証人、統一教会、モルモン教といったキリスト教カルトと呼ばれるものについて当惑する方がおられます。さらにプロテスタントの中にも数多くの教派があって。それら各教派の教理が互いにぶつかり合い、ある点では全く正反対の聖書解釈と論争が存在することもご存知でしょう。たとえキリスト教全体のイベントや活動の為に各教派が共に集まることが出来ても、聖書によって深く交わる事がなかなか難しいというのが現実です。謂わば、この「聖書観」の違いというものは、世界観や価値観の問題であり、個々の教会に特徴として大きく現れます。では、どの教会に行ったら正しく聖書が学べるのですか?何故そんなに多くの聖書解釈があるのですか?という次なる疑問について考えてみましょう。

 まず、聖書は聖書によって解釈される!これは第一に知っておくべきルールです。聖書の独自性を認め、その絶対なる基準に信頼するからこそ聖書の学びが出来るのです。聖書は他の何物かによる説明や保証を必要としません。また個人の主観によって読まれるべきではありません。聖書という客観的真理によって、かえって自分自身が測られるのです。

1. 聖書に私的解釈を施してはいけない

 聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない。(Uペテロ1:20)

 聖書の私的解釈がキリスト教に混乱をもたらしています。私的解釈の誤りは、個人(神学者・注解書)、或いは組織(教団・神学校)の中に存在します。聖書が絶対なのであり、解釈がそれ以上の権威を持つことが問題なのです。著名な学者、有名な説教者、大教会の牧師の解釈を、あなたは聖書から検証できますか?聖書の次に挙げる箇所が、私たちのとるべき姿勢です。

 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17:11)

 これらの人々は神に対して忠実であり、宗教に欺かれない人々でした。また、アポロという優れた巡回教師を、信徒であるプリスキラとアクラが教え、アポロもまた彼らに耳を傾けた謙遜さには驚かされます。

 さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。(使徒18:24−28)

 ここに挙げた人々は教師や組織にではなく、聖書に権威を認め、従順であったことがわかります。

2.聖書の解釈者は誰ですか?

聖書の解釈者は聖書の著者である!すなわち神ご自身なのです


 ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」
ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありません
か。さあ、それを私に話してください。」(創世記40:8)
 

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に
導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて
起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(ヨハネ16:13)

 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、(ルカ24:45)

 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(Tコリント2:9−12)

 ところがカトリック教会の主張は、その教会は、真理の柱また土台です。(Tテモテ3:15)を持ち出して、教会こそが解釈者としての最終的権威であるとします。しかしこの文脈はキリストの体としての教会を指すのであって、ローマにおける政治的団体を意味するのではありません。

3.欺かれてはいけない

  あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(Uテモ2:15)
英語欽定訳(KJV)では、
 Study to shew thyself approved unto God, a workman that needeth not to be ashamed,rightly dividing the word of truth.
 すなわち、真理のみことばを正確に区分できる、恥じることのない働き人、神に承認された者として、あなた自身を明らかにするために学びなさい 

 だれにも、どのようにも、だまされないように しなさい。(Uテサ2:3)

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)
英語欽定訳(KJV)では、
 Be not deceived  ;God is not mocked:for whatsoever a man soweth, that shall he alsoreap.
要するに欺かれてはいけないということです。そのために聖書解釈には細心の注意と学びが必要なのです。聖書は人を救うだけではありません。滅ぼしもするからです。

 もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、――主であるわたしがその預言者を惑わしたのである。――わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。(エゼ14:1−23)

 他にはUテサロニケ2:2 T列王記22:16−23 などもかなり注意深く読んでみて下さい。

 聖書はそれを扱う人々によって、度々曲解され、罪を行う大義名分にされてきました。中世から現代に至るメキシコ、イタリア、スペイン、南米の道徳的モラル、経済、社会、霊的コンディションについて言えば、それらの国々はローマ・カトリックの承認により下記の事柄を聖書によって肯定、または正当化し、行ってきた事実があります。

 @殺人 伝道者3:3 Tサムエル15:3
 A姦淫 マラキ3:15 アモス4:4,13,14
 B強盗 ヨブ12:6
 C泥酔 申命記14:26 箴言31:6
 D教会組織と救いを結びつけること マタイ16:18 ヨハネ6:55,56 ヨハネ20:23
 E水のバプテスマ(洗礼)と救いを結びつけること ヨハネ3:5 ローマ6:3 ガラテヤ3:27

勿論、聖書それ自体はこれらの事を禁じています。

 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。(Uペテロ3:16)

3. 聖書が教えない「教え」

 人々が自分の考えを聖書に読み込み、自分勝手な教えを作り上げることは珍しくありません。ではどのようにそれがなされるのでしょうか?
@聖書に言葉を付け加える
A聖書から言葉を差し引く
B聖書の文脈を考慮せず、ある語だけを抜き取って扱う
C言語の意味を変える

 これらの事は聖書翻訳にも悪影響を与えています。私はKJV(英語欽定訳)をお薦めします。

4. AD200年より分裂分派が続いている

 というわけで、今や多数の教団教派が存在します。また、今日のキリスト教それ自体が絶対的な基準によって活動しているとは言えない状況です。なぜなら、絶対基準を聖書としながらも、実際には様々な聖書翻訳があり、翻訳の違いによって、解釈も異なるという問題が引き起こされるからです。では、何故私はKJV(英語欽定訳)を薦めるのか?それについてはまた別の機会に…。