知恵の性質




 

 知恵というものは善性である。しかし「悪知恵を働かせる」という言葉がある以上、ここに悪性の知恵を認めて区別せねばならない。

 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。(ヤコブ3:15)

 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(ヤコブ3:17)

 知恵の性質は、内なる動機により決定されており、外なる結果により判別される。それは知恵を用いる本人の良く知るところである。

 第一に知恵は純粋である。一般的に清さは誰にでも喜ばれる性質と言えよう。しかしながら、罪深く、汚れた者にとっては耐え難い性質でもある。清さが自分の卑しさを際立たせるから腹立たしい存在なのだ。ついにはこれを敵視してあざ笑う。若者よ、彼らの座に着くな!それは愚かなのだ。

 第二に知恵は平和である。戦いにおいては無血による征服こそが最上の戦略と言えよう。また問題を抱えて慌てふためく人の姿に、知恵のなき事を認めざるをえない。イエスは問題の大波に向かって知恵を語られる。「黙れ、静まれ。(Peace, be still.)」(マルコ4:39)と。

 第三に知恵は寛容である。頭のきれることが知恵ではない。何でもインスタントに、スマートにやってのければ良いと言うのでもない。一人の仕事と責任は小なり、大勢を活かすは大である。まして人の心の奥底から真実を汲み出すのに相当な時間を費やすは至極当然。性急と偏狭とは他者の心の井戸を浅く、また狭くさせるであろう。あるいは閉ざされてしまう。これを知恵とは言うまい。

 第四に知恵は慕い求められる。知恵の方からあなたの所へ参上するのではない。あなたが知恵の所に足を運んで指導を請うのである。知恵は来る者を拒まず、去る者を追わない。シェバの女王はソロモンの知恵を求め、バビロ二アの賢者達は賢王を求めて、それぞれ遠路より旅した。価値ある者は価値を恋慕う。

 第五に知恵は豊かさである。内にある豊かさは外にも表される。誰もが来て憐みを受け、良い実を楽しむ事が出来るだろう。豊かさの中に争いは生じない。争いが生じるとすれば貪欲の罪があるからだ。彼ら、争う者達は神から養われる事を知らない貧しい者達である。

 第六に知恵は不公平を許さない。単純に分配できるものなら、然程、知恵を必要としないであろう。しかし、複雑な問題に人々の思惑や利害が絡む、その時こそ知恵が求められる。全てを熟知し、公正な立場で裁く者が立たねばならない。日本はどうだ?政治家はヨセフに、ダニエル、キリストに来ないか?キリスト御自身こそは、公義を持って世界を統べ治められる、やがて来るべき王である。その時シェバの女王は裁きの座に立って、日本を責めるであろう。

 第七に知恵は偽善ではない。偽善はそれ自体、自己矛盾である。平和を装った争いの性質である。黒を白と言うほど馬鹿げた事はない。これに対し我々は白を白と言う者である。黒を黒として容易く偽善の言葉を論破する者である。偽善者はあらゆる専門用語を用い、遠回しな論説で時間を浪費し、難解な言葉で多くの情報を語ることが金になると考える。知恵は求めさえすれば誰にでも与えられる。高ぶって歩き回る者は知恵者であろうはずはない。

 知恵を賛美せよ!その源なる神を讃えよ!聖書に学べ!神に来たれ!