理解の目




 

 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」。イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。(ヨハネ9:1−7)

 「目が開かれる」とはよく言ったものである。それは理解や悟りを意味する言葉、啓示の光に関することだ。真にシロアムの盲人はその人の内において「開眼」したのだ。

 別の意味で「目が開かれた」人々がいた。それは創世記3章に記されているアダムとエバの事である。善悪の知識の実を取って食べた二人の目は開いて、自分達が裸であることに気付いたとある。肉体の目はこれまでも自分達の裸を認知していたであろう。しかし神は言われた。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。」

 これはアダムとエバの、裸に対する評価が変化した事を表す。裸を卑しくし悪と教えたのはサタンの仕業による。暗闇の教えによって開かれた目は、同時に光による理解の目を閉じてしまった。我々は専ら一時的な物の見方に傾倒し、永遠への関心を持ち合わせてはいない。人は霊的盲人となってしまった。

 イエスはまた次のように言う。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:22〜24)

 開眼した盲人は、イエスへの信仰の故に世間から切り離された。しかしそれを選んだのはこの勇気ある人であって、捨てられるよりも先に世俗を捨て、それを保持しようとしなかった。「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。」(ヨハネ10:18)

 ここに神の人たる確固とした生き方がある。「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(Uコリント6:8〜10) ダマスコの途上で失明し、再び開眼したパウロの言葉である。