金の使い道




 

 さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。(ルカ19:1−10)

 取税人ザアカイのストーリーである。年数を経たクリスチャンであるならば、この箇所を何度も説教で聞き、また自ら繰り返し読まれたであろう。私自身も幾度となくこれを扱い語ってきた。そこには運命的なイエスとの出会い、その背後にある神の摂理、そしてザアカイの転身について美しく描かれている。勿論本日もその部分にスポットを当ててお話しようと思う。しかしながら、説教の時間だけではカバーしきれない事も述べておきたい。それは「金」の話である。なぜなら取税人ということであれば、根底にある思想価値は金であるからだ。そしてザアカイの変化もまた、金に対する変化として表れる。

 政治・宗教には金の問題が纏わりつく。所謂「献金」というものだが、一般的にあまり良いイメージを持たれてはいないであろう。金は必要だが、それに執着する事が罪なのである。それは差し出す側にも、受け取る側にも云える事である。イエスの態度がそれである。私の敬愛する恩師も全くと言っていいほど金に執着しない。だからと言って乱費するのでもない。どこに必要があるかを賢く見分けて、投入するだけである。

 下記に気になる金のキーワードと定義を挙げた。(はてなキーワードより)

【税 金】 国が、公共サービスを提供するための資金調達を目的として、私人から徴収するお金。正確には「租税」と呼ぶ。
【義援金】 災害などの被害を受けた人たちの救護・支援のため、あるいは慈善のために寄付されるお金。元は「義捐金」と書く。「義」は「道理・条理」の意味から、その条理に従い利害を捨てて人道や公共の為に尽くすこと。「捐」は「すてる」の意味から、私財を出して人を助けること。
【献 金】 ある目的に使ってもらうため、お金を差し出すこと。また、そのお金。

どれも金を差し出すことである。しかし教会でいうところの「献金」は意味が違う。それは神への感謝であり、信仰であり、金ではなく「心」を献げる行為なのだ。

 地上社会というものは残念ながら経済活動なしには生活できない仕組みになっている。人はそのシステムに奴隷化されていると言っても過言ではないだろう。しかし天には無限に与える神がおられる。天に国籍を持つ者の心は金で縛られない。我々は自由なのだ。「不正な富」(金)を用いて友を得よ!(ルカ16:9)そして「真の富」を得たザアカイに習おう。

 与えるということは、孤独の上に橋を架けることである。(サン・テグジュペリ)