祈りの達人




 
 
 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王
ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが
父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んだ。エリシャが王
に、「弓と矢を取りなさい。」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのと
ころに持って行った。彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい。」
と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の
手の上にのせて、「東側の窓をあけなさい。」と言ったので、彼がそ
れをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射
ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の
矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」ついでエ
リシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラ
エルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回
打ったが、それでやめた。神の人は彼に向かい怒って言った。「あな
たは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打
って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つこと
になろう。」(U列王記13:14−19)

 あなたは祈りが聞かれるという保障を持っていますか?祈りによる霊的な豊かさをもっていますか?祈りの知識はあっても信仰の経験や実質において貧しいのではありませんか?祈りは聞かれても聞かれなくてもいいと思っていませんか?あなたは祈りによって得たものと、祈りによって学んだことのどちらが尊いと思いますか?

さあ、祈りに必要な要素について学びましょう。


1.渇 望 … 求めるなら真剣に祈りましょう。

 もし自分が求めたものを忘れなら、神もそれを忘れてしまうでしょう。なぜなら神は「求めるもの」になく、祈りによって「互いを知り合うこと」にのみ関心を持たれるからです。もし探究心が乏しいなら、実際に神が祈りに答えられたとしても、それが神の御業と感じることもないでしょう。神との関係がないことははっきり言って無意味なのです。

2.求める … はっきり声に出して祈りましょう。

 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ4:2)

 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、(T列王記3:11)

 さて、祈りにおいて心と言葉の一致は大切です。

  あなたが祈る前から、神はあなたの心の内の願いを知っておられますが、

 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。(詩篇139:4)

 その願いを言葉に出さなければ願った(求めた)とは言えません。私は自分の子どもが何を欲しがっているかを知っています。しかし、彼らが求めないものを与えはしません。また遠回しな言い方をして願っても与えません。子どもがはっきりと求めることを待ちます。そして互いの思いをよく知った上で与えるか否かを決めます。

3.従 う … 神に聞き従わないものの祈りを神は聞かれません。

 これは当前のことだと思うのですが、危機的状況に際しては、例外的に神が祈りを聞くこともあるかもしれません。親は子どもを愛し、育て、保護する責任がありますが、子どもは親を尊敬し、信頼し、従う義務があるのです。この関係が崩れると家庭内のルールにも影響あります。

4.信 仰 … 二心はいけません。

 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。(ヤコブ1:6−8)

 あるクリスチャンたちは「あなたが私の祈りに答えられなかったとしても、私はあなたに従います。」「神の御心であればそれを為してください。御心でなければ結構です。」というような祈りに慣れています。これを会社の取引などですれば「あんたはそんないい加減な気持ちなのか!」と叱られてしまいますよ。

 神のお考えを知らずして、表面的に「御心であれば」などと祈るべきではありません。それは中途半端で矛盾した態度です。むしろ自分の心を注ぎだし、体当たりの祈りをしましょう。大胆に願い、はっきりとYES!NO!の答えと理由を頂くべきなのです。その時、神の思いと人の思いとがどれほど違っているかを知り、神を称え、自分は謙遜を学ぶでしょう。

 パウロは祈りにおいて神の答えと理由をはっきりと知っていました。

 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Tコリント12:7−10)

 彼に与えられた「肉体のとげ」の意味を理解したパウロは、神の御心に従う態度と共に、喜んでその痛みを受け取り、神を賛美したのでした。そして、3度以上に願うことをせず、十字架を負う歩みを選んだのです。その喜びはピリピ人への手紙によく表れています。

5.賛 美 … 約束を得たなら祈りを止めるのです。そして期待して待ち、賛美しましょう!

 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。(マタイ6:7)

 本当に祈りを知っている人は賛美を知っています。答えを頂いて、なおもくどくど祈り続けることは疑うことなのです。サタンは「もっと熱心に祈るべきだ」と誘惑して、祈りそのものを妨げ、破壊しようとします。聖書のある箇所ではあきらめずに祈り続けることを教えていますが、それは矛盾ではありません。神の御心を探り求め、疑惑の中にあるいじょうは求め続けることが必要です。イスラエル王ヨアシュは途中で祈りを放棄しました。要するに、神ご自身がどのようなお方で、どのように考えられるのかを知ることが祈りの目標であり、祈りを終えるか(中止ではない)、続けるかのポイントなのです。

6.思い出させる … 約束を主張しましょう。

 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。(イザヤ43:26)
 今、イスラエルの神。どうかあなたのしもべ、私の父ダビデに約束されたみことばが堅く立てられますように。(T列王記8:25)

 私は役所にある申請書を出した後、返事が遅いのでとても心配になった経験があります。その申請書はしっかり受理されただろうか?記入にミスがあったのではないだろうか?忘れられてほったらかしにされてはいないだろうか?あなたは、神様からの答えを受け取ったのに、なかなか実現しないではないかと疑問に思われることがありませんか。神は最も良い「時」に祈りの答えを実現して下さいます。私たちにはその「時」が分からないので、神が祈りを忘れてしまわれたかの様に思うこともあるでしょう。神は約束を忘れることはありませんが、タイミングを計っておられるのです。神の側も人の側も共にその実現を待っていることを覚えましょう。その時、互いの間で約束を確認する祈りは関係をより深めます。神とアブラハムは一つの約束について何度も確認し、深めていったのですから。

7.深い学び … 祈りの学びに卒業はありません。

 生涯祈祷。7歳の子どもと70年の信仰者とが同じ内容を祈っても、そこには祈りの深遠さには違いがあります。どちらも神の前に清い祈りではあったとしても経験が違うのです。今後、祈りによって忍耐を学ぶでしょう。或いは祈りにおいてサタンとの戦いに勝利することを学ぶかも知れません。神はあなたを祈りの豊かさへ誘っておられます。

【余談】 ところで…私は長年の間、「天の父なる神様…」という代わりに「イエス様…」と呼びかけ、最後に「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と締めくくっていました。これはおかしいと気付いたのは最近の事。随分、適当な祈りの理解だったなあと、只今矯正中です。